生物は人類の発展ではなく進化の結果であるため、そこにエンジニアリングの原則を当てはめようとしても必ず失敗します。あるいは、製薬業界の観察者Derek Lowe氏が2007年、Intelの最高経営責任者Andy Grove氏の批評において最初に引用した、「Groveの誤り」の背景になった議論に陥ってしまうでしょう。Grove氏は前立腺がんと診断された後、自らが医薬品における「実質生産量の不足」と述べた事実に対し失望を覚えました。特に、Mooreの法則に従う自身の業界の動きと比較しての失望でした。
それはシリコンバレー門外漢からの素朴で的外れな批評だと、Lowe氏は主張しました。「医薬品研究は半導体の研究とは異なる(そしてより難しい)」からです。そして「私たちは医薬品を組み立てたわけではないということも理由の一部です。(半導体のような)モノを一から作るというのは、そのモノを理解するということに関してかなり有利です。しかし私たちは、何十億年も先に始まった生命の研究から初めたのですから」と言います。そのためもともとエンジニアリング生物学という大層なアイデアは失敗する運命にあると、Lowe氏はさらに続けます。「何十億年もの進化の過程でいじくり回された結果、生み出されたのはとても複雑で奇妙なものでした。それは人類が設計した最高レベルの技術も、棒きれでできているように見えてしまうほどです」
しかし生物とテクノロジーの世界は、人間よりも正確なAIによるがん診断から、CRISPRによるゲノム編集まで、過去数年で著しい進展を見せてきました。では、エンジニアリングの考え方を生物に持ち込むというアイデアが、夢想的な科学技術者の解決主義のもう1つの事例になるというのは、やはり真実なのでしょうか?
私たちは進化の「技術的負債」を未だに解きほぐしながら、まだまだ生物の発見の途上にいることは明白です。ある人が生物を理解したと考えても、その途端に別のレベルでの考え方が現れます。生物を破壊することも危険なほど簡単で、コードの破壊よりもずっと深刻な結果を引き起こします。たった1ヶ所の突然変異が病気を引き起こし、ある化学薬品のほんの僅かな量が悲惨な副作用を持つ可能性もあるのです。薬、特に医薬品設計の失敗の多くは、生物が複雑で予測不可能なことを原因としています。
しかしながら、私たちが未だに生物を発見している途中にいるという事実が、生物を設計できないということを意味するわけではありません。生物を扱うために使うツールをエンジニアリングすることができます。
事実、人類が生まれてから、私たちは生物を管理、拡大、置換、または強化するためのツールを設計し、作り上げてきました。ジャングルを居住可能な村に開拓したり、感染症を食い止めたり、手足を失った人たちのために高度な義手・義足を作ったり、欠陥部位を置き換えるための合成医薬品を作ったり、あるいは今では自然界に存在しなかった機能を作り出すことさえしています。それが実現できるのは、私たちがそれらの材料の性質を経験的に学び、そしてそれらを使って新たな構造を何度も繰り返し設計し、作り上げてきたからです。薬や身体に対しても引き続き同じことができないはずがありません。
唯一の問題は、どのようにしてそれを実現するかです。もし発見が、周りの世界の理解という目的を持ったアイデアとコンセプトの体系的な探求だとすれば、設計はエンジニアリングの中心です。そこでは科学分野で得られたコンセプトが採用され、置き換え可能で、時間がかからず、より予測可能なやり方によって、私たちの周りのあらゆる物が作られます。
私たちは今では問題なく橋を設計しますが、医薬品の発見は違います。コストの問題もあります。10億ドル規模の橋については、試行錯誤や実践、十分に試されたエンジニアリングを通して設計の方法が学ばれており、めったに失敗しません。一方で10億ドル規模の医薬品開発には失敗がつきもので、犠牲が大きいのは言うまでもありません。しかしながら設計ができれば、ロードマップに従って非常に体系的に計画を立てて開発を進め、途中で徐々にイノベーションを生み出すことができます。いわゆる「Groveの誤り」を克服し、生物を飼いならすための原則を、エンジニアリングから借用して以下に紹介します。
原則1:レゴブロックのような構成単位
生物は階層的な性質を持っています。原子がアミノ酸を作り、アミノ酸がタンパク質を作り、それらが全て集まって細胞を作っています。そしてその細胞が組織を作り、臓器となり、有機体となってニッチを成し、そして生態系を完成させています。進化は究極のアルゴリズムです。そしてより速い進化を促進し、選択圧(メタ進化)に対してより上手く対応するための能力が、このモジュール方式を増強するメカニズムを生み出してきました。多くの階層構造が分かっているため、もし細胞機構をエンジニアリングしたければ、その部品はタンパク質となり、細胞組織なら部品は細胞となります。より大きな規模になっても同じように部品を特定できます。
これは単なる仮説ではありません。すでにミオシン(輸送のために細胞微小管ハイウェイを歩くプロテイン)のエンジニアリングから、2つの重要なタンパク質モジュール(この場合の「レゴ」)を特定して接合することで、患者の免疫細胞をエンジニアリングし、がんを治療することのできるCAR-T療法まで、その成功事例が多数存在します。研究者や起業家は生物のこの機能的な側面を使い、細胞をプログラムしました。プログラムは基本的に全てのタンパク質から、「互いに相性の良い」限られた細胞のセットと、一連のレゴとして使われる残りの細胞にまとめ、遺伝回路を構築します。
生物におけるレゴやその特性をいったん識別できれば、それらをエンジニアリングしたり、混合したり組み合わせたりさえして、全く新しい機能性を設計することができます。
原則2:反復性および再現性
非再現性は、特に論文の発表や結果の再現ができないことに関し、現代生物学における深刻な問題点と言えます。しかし、エンジニアリングをベースとした生物へのアプローチにおいては、再現性が極めて重要な特質となっています。当然ながら、再現性なしにプロセスをエンジニアリングすることはできません。
生物における非再現性の主な原因の1つが、現在でもオーダーメイド(文字通り「手作り」)の、産業革命前のような生物実験の性質にあります。その性質が、ほとんどの実験を科学というより芸術(アート)にしています。しかし現代のテクノロジーは、試薬における一貫性の問題から、課題の再実行とデバッグまで、生物のプロセスを大幅に再現性のあるものにしつつあります。ロボティクスが最も明白な方法の1つで、現在では機械の精度を持った正確な動きをソフトウェアで指示することが可能です。
機械学習も大きな役割を演じています。病気に対するバイオマーカー(測定可能で目標にすることのできる化学物質)の特定は、現在のところ1回限りのオーダーメイドのプロセスを通した発見により進められています。そのため、例えば前立腺がんのPSAの発見は、卵巣がんのバイオマーカーに関するヒントを与えてくれません。このプロセスに機械学習を導入することで、手作りの作業を組立ラインによる生産へと変えることができます。さらに、私たちは機械に探索の方法を教え込んでおり、これによって再現性だけでなく、時間と共に正確性も向上させることができます。より多くの未加工データからの情報と、人間では把握することのできない複雑なパターンの認識能力のおかげです。
多くの企業がすでにこれを実施しています。Appleの最新型腕時計は、消費者の装身具が「医療グレードの機器」に変身する「iPhone的マイルストーン」として歓迎されました。医薬の領域にディープラーニングを適用する起業家は、Appleウォッチの包括的な脈拍データの流れからラベル付けしたデータとAI/MLを使い、心房細動を正確・精密に識別します。しかし、生物がエンジニアリングになることで注目すべきは、非常に似通ったプロセスを使って心臓疾患を検知したり、その他多くの分野で患者の病気(高血圧、睡眠時無呼吸、2型糖尿病など)を予測したりできることです。
がんの早期発見や、寿命と関連するバイオマーカーの識別も可能なそれらの機械学習主導企業は全て、「生産ライン」のようなものをエンジニアリングしています。今ではそれらの企業は、材料を適切に提供しさえすれば、予測可能・正確・再現可能な方法で、多くの試験を大量生産することができます。それが、「Groveの誤り」が正しくないもう1つの側面です。コンピューターチップ(Mooreの法則)、ストレージ(「Kryderの法則」)、およびゲノミクスにおける飛躍的な進歩(全て、10年間で1,000倍の急激なコスト低下を果たした)は、たった年間30%の改善から生まれています。生物においても、より高い再現性と時間をかけた段階的な改善、およびより高い正確性が、結果的により大きな進歩へとつながります。例え小さなことだとしても、非常に大きな役割を果たすからです。
原則3:テストおよびプロセスエンジニアリング
テストは、与えられた製品/兆候/医薬品の状態を正確に理解する能力です。また、テストの必要性は明らかである一方で、テストの方法やその成功を計測するために使う基準は明確ではありません。そのため、重要成果達成指標(KPI)の選択とエンジニアリングは極めて重要です。この道案内をしてくれるコンパスがなくては、プロジェクトが間違った方向に進んでしまうかもしれません。
エンジニアリングにおいて、またはあらゆる企業において、KPIは成功(または少なくとも進捗)を定義し計測するための方法として常に使われています。しかし「伝統的な」生物学の実験や医薬品開発では、このコンセプトが使われてきませんでした。生物学は概念的に、発見によって進められていたためです。何を発見するかわからない場合に、どうやってKPIを割り当てることができるのでしょうか。今日、エンジニアリングとコンピューターサイエンスを利用するバイオ関連スタートアップの新たな波は、タンパク質発現に対して合成される分子や、検査される細胞数などを計測するためのKPIを特定しています。
極めて重要なのは、どのようなKPIが適切か判断することです。エンジニアリング生物学においてはほとんど前例がないため、これは難しい課題かもしれません。しかし、より幅広い薬品の分野でもほぼ同じことが言えますが、基本的な原則は「計測可能なものは改善が可能で、それらの改善が大きな見返りを生む可能性を持つ」ということです。事実、主観的な直感から客観的な計測への進化は、それ自体が発見(生物)から設計(エンジニアリング)への移行を表す別の指標となり、Grove氏の世界観とより調和します。
原則4:その他の分野からの借用
生物にエンジニアリングを持ち込むための明快なアプローチは、素材、化学、電気、機械などの既存分野を生物の領域に適用することです。最近まで生物を定量的に試験したり反復したりする能力は、極めて限られていました。しかし、生物にもビッグデータセットという大量の新たな定量的計測が生まれたことで、その他のエンジニアリング手段を組み入れるための門戸が開かれました。
例えば、世の中には機械エンジニアリングの原則を使って、外科手術の結果予測にシミュレーションを取り入れる企業も存在します。そうすることで、患者を使って試行錯誤のうえ発見する代わりに、治療をエンジニアリングすることができます。James Rogers氏は太陽電池材料設計で学んだ素材科学をベースとするエンジニアリング技術を、食物に対して適用しました。これにより、ナノ科学の技術を使って果物や野菜を腐敗から守る、ナノスケールのバリアーが作り出されました。これは単なるモノマネではなく、生物を役立てるために他の分野からエンジニアリングの基礎を借用するという1つの方法です。
原則5:プロセスそのものの再発明
1962年のNASAのエンジニアならおそらく月へ行くことを想像できたでしょうが、彼らはどうやってその実行を始めたのでしょうか?答えは単純です。問題を部品に分解し、それからプロセスを段階に分解したのです。そして(ソフトウェアの例から借用し)バージョンを重ねました。アポロ1号は月へ行きませんでしたが、アポロ11号で達成しました。
このような「非常に困難で大胆な目標」(別名BHAG)は人を怖気づかせ、不可能な野心のように見えます。ここで重要なのは、長期的に考え、企画し、前向きに計画を立てる能力です。それは、エンジニアリングをベースとした他のあらゆるロードマップを設計する時と同じやり方です。アポロ計画のチームは大部分のエンジニアと同様に、物事をより実行可能なエンジニアリングの段階へと分解しました。それらの段階が1つにまとまり、大きな夢が実現されたのです。
生物の課題は問題を各段階に分解することと、しばしばプロセスそのものの再発明にあります。しかし、一貫した性能の向上(そもそもGrove氏が示唆していたこと)に対する願望により生物がオーダーメイドの職人的なやり方から、設計された拡張可能なプロセスへと移行すれば、一見したところ控えめな性能の向上であったとしても、違いを生み出すことができます。例えば毎週1%の性能向上は、1年でほぼ倍になり、2年で3倍になります。そして生物においては、そのような改善が大きな影響力を持つことになるでしょう。
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Andy Grove氏はIntelを創業したわけではありませんが、初期の同社に席を置き、製造管理手法だけでなく、Intelの共同創業者Gordon Moore氏の提案した「法則」(1つの回路内のトランジスタの数は2年毎に倍増する)にも深く影響を受けました。しかしMoore氏の法則は物理的なことではなく、経済的なことであり、さまざまな技術、さまざまなチーム、さまざまな10年を通して引き継がれるエンジニアリング活動から生まれたものです。それは自然ではなく人によって課せられた、意志の法則なのです。
生物学において、私たちはすでにMooreの法則をしのいでいます。ゲノミクスのコストは20年で100万分の1以下に下がりました。このプロセスを生物学の他の分野にも持ち込めないわけがありません。現在、問題は「Groveの誤り」で議論されるような、生物においてそれが可能かどうかということではありません。今日、エンジニアリング生物学において私たちがいる位置を考えれば、問題はその方法なのです。
著者紹介
Vijay Pande 博士は、Andreessen Horowitz のジェネラル・パートナーで、バイオファーマとヘルスケアへの投資に注力しており、Apeel Sciences、Asimov、BioAge、Ciitizen、Devoted Health、Freenome、Insitro、Omada、PatientPing、およびRigetti Computingの取締役を務めています。また、スタンフォード大学のバイオエンジニアリングの非常勤教授でもあり、化学生物学、生物物理学、生物医学の各分野で挑戦的な問題に取り組む Pande 研究室の顧問を務めています。
記事情報
この記事は原著者の許可を得て翻訳・公開するものです。
原文: How to Engineer Biology (2018)