アンラーンのレッスン (Paul Graham)

(※訳注:アンラーン (unlearn) とは、学んだことを忘れること。学びほぐし。学習棄却。)

学校で学んだことで最も有害なのは、特定の授業で学んだ何かではありません。良い成績を取る、というのを学んだことが最も有害でした。

大学生の時に、際立って熱心だった大学院生が一度私に話したことがあります。彼は授業でどんな成績を取るかを気にしたことはなく、何を学んだかを気にしていたそうです。それまでそのようなことを聞いたことがなかったので、心に刺さりました。

私にとって――ほとんどの学生にとってそうであるように――大学での実際の学びを支配していたのは、自分の学んだことに対する測定値でした。私はそれなりに熱心で、自分が選択したほとんどの授業に本当に関心があり、一生懸命取り組みました。しかし、最も懸命に勉強したのはテストに向けての学習でした。

理屈の上では、テストは単にその名称が暗示するもの以上のものではありません。授業で学んだことをテストするだけです。理屈の上では、授業のテストには準備をする必要はありません。血液検査と同じです。理屈の上では、学習は、授業を選択し、講義を聞き、読書し、課題をこなすことで成立し、その後のテストは単にどの程度学んだかを測るだけのものです。

実際には、これを読んでいるほぼ全員が身に覚えがあるように、全く違います。あまりにも違うので、授業やテストがどのような機能を意図しているかについての上記の説明を聞くことは、まるで完全に意味が変わってしまった言葉の語源研究について聞くようなものになってしまうでしょう。実際には、「テスト」と「勉強」はほぼ重複した意味をもっていました。真面目に勉強したのは、テスト勉強のときだけだったからです。勤勉な学生と怠慢な学生の違いは、前者がテスト勉強を懸命にやっているのに対し、後者はそれをしない点です。学期が始まってから二週間もたたないのに、徹夜で勉強する人はいませんでした。

私は真面目な学生でしたが、学校で取り組んだことのほぼすべてがよい成績を取るためのものでした。

多くの人にとって、ひとつ前の文に「でしたが」が入っていることが奇妙に思えるでしょう。単なる言葉の綾でしょうか。真面目な学生、すなわちオールAの学生とはそういうものではないのでしょうか。これは、テストと学びの組み合わせがいかに深く私たちの文化に浸透しているかを表しています。

学びが成績と組み合わせになっていることはそれほど悪いことでしょうか。はい、悪いことです。私は Y Combinatorを運営しようとした時に初めて、それが悪いことだと気付きました。

もちろん、私は学生時代、テスト勉強が実際の学びとかけ離れていることはわかっていました。少なくとも、テストの前に頭に詰め込んだ知識は記憶に残りません。しかし、問題はそれだけではありません。本当の問題は、ほとんどのテストが、それが意図するものを測定するには程遠いことです。

仮にテストが学びをテストするものであれば、そう悪いことではないでしょう。よい成績を取ることと学びはほんの少し後で結びつきます。問題は、学生に実施されるほぼすべてのテストは、あまりにも簡単に裏をかくことが可能 (hackable) である、という点です。よい成績を取った学生のほとんどはこのことを知っています。このことを疑問に思うことさえないくらい、よく知っています。疑問に思うことがいかに世間知らずにみえるかを悟った時にわかります。

中世の歴史の授業を選択していて、テストが迫っていると仮定してください。学期末テストは中世の歴史に関する知識をテストすることになっていますよね?ですから、今からテストまでの間の最善の時間の使い方は、もしよい成績を取りたいなら、中世の歴史について書かれた最高の本を探し、読むことです。こうすればたくさんの知識が得られ、テストでもよい点が取れます。

まさか、違う、絶対に違う、と、経験の長い学生は言うでしょう。中世の歴史に関する本を読んだだけでは、その内容のほとんどはテストには出ないからです。読みたいと思うのは良書ではなく、この授業の講義ノートや課題の読書です。そして、それらの読書のうちのほとんどを無視することができます。テスト問題として出題される可能性のある類の内容だけを気にしていればよいからです。皆さんは正確に定義された情報のまとまりを探しています。課題読書の一つに、細かな点で興味深い脱線があるとしても、堂々と無視することができます。テスト問題に出そうもないからです。しかし、教授が、1378年の大分裂には根本的な原因がある、あるいは、黒死病がもたらした大きな結果が三つあると教えているなら、それらについての知識はあった方がいいということになります。実際にその原因や結果が的外れなものであっても、関係ありません。少なくとも授業を受ける上では、正しいとみなして問題ないからです。

大学でよくあることとして、古いテストのコピーが出回っており、それによって、学ぶべきことの範囲がさらに絞られます。その教授が問いかける質問の種類を知るだけでなく、実際のテストの質問を入手することもよくあることでしょう。多くの教授が使い回しをしています。10年間、教壇に立った後では、うっかりと使い回しをしないということの方が難しくなります。

いくつかのクラスでは、教授は強烈な政治的意見を持っています。その場合、皆さんも同じようにならなければいけません。その必要性は様々です。数学やハードサイエンス、エンジニアリングの授業では、それは滅多に必要となりません。しかしこれとは対照的に、それなくしてよい成績を取ることのできない授業もあります。

xについて教える授業でよい成績を取るということと、xについて多くを学ぶということは全く違うことなので、皆さんはどちらかを選ばなければなりません。成績を優先させたからといって学生を責めることはできません。皆が成績で学生を評価します。大学院の入試担当、雇用者、奨学金制度、両親でさえです。

私は学ぶことが好きです。大学ではとても楽しんで論文やプログラムを書きました。しかし、私は、ある授業でレポートを提出した後、楽しいという理由だけで席に座って別のレポートを書いたでしょうか。もちろん、そんなことはしていません。私には別の授業のためにすべきことがありました。学びと成績のいずれかを選ばなければいけなかったとしたら、私は成績を選びました。大学に行ったからにはよい成績を収めたいと思ったからです。

よい成績を取りたいと思う人は誰でもこのゲームに参加しなければいけません。さもなければ、このゲームに参加している人に追い越されます。そしてエリート大学では、これはほぼすべての学生に該当します。おそらく、よい成績にこだわらない人はそもそもそこにいないからです。結果的に、学生は、学ぶこととよい成績を取ることの差をこぞって拡大します。

テストはなぜそんなに悪いものなのでしょうか。より正確に言えば、なぜそれほど裏をかくことが可能 (hackable) なのでしょうか。熟練のプログラマーなら誰でもその質問に答えられます。ハッキング防止に注意を払っていない権利者のソフトウェアはどれくらいハッキングしやすいのでしょうか。通常は、水切り穴から水が抜けるように簡単です。

権利者によって課されたテストはどんなものでもデフォルトはハッキング可能な状態です。なぜ差し出されるテストが一貫して悪いものなのか——つまり、測定の意図とははるかにかけ離れたものを測定し続けているのか。その理由は、単にそれを作っている人たちがハッキングを防止するための努力を十分にしてこなかったからです。

しかし、ハック可能だからといって教師を責めることはできません。彼らの仕事は教えることであり、ハックできないようなテストを作ることではないからです。本当の問題は成績です。より正確にいうなら、成績が偏重されていることです。成績が、単に、コーチがアスリートに助言を与えるように、教師が行動の善悪を教える方法であるだけなら、学生はハックすることでテストに臨むことをひな型としません。しかし残念ながら、特定の年齢を過ぎると、成績が助言以上の意味をもつようになります。特定の年齢を過ぎて学ぶことは、同時に評価の対象とされることを意味します。

私は大学のテストを例として使ってきましたが、実はそのようなテストはもっともハックが難しいものです。ほとんどの学生が生涯をかけて受けるテストは、実は同じぐらい悪しきものなのです。そのもっとも顕著な例が大学入試です。もし大学入試が、科学者が質量を測定するように、アドミッションオフィスに思考の質を測られるだけのものなら、私たちは十代の子供に「たくさん学ぼう」と教え、あとは自由にさせることができます。これが実際に高校で行われている教育といかにかけ離れているのかを考えると、大学入試がテストとしていかに悪しきものかがわかります。実際には、高校で野心的な子どもがこなさなければいけない内容の奇妙な特異性は、大学入試がいかにハック可能であるかということと比例しています。受ける側が関心のない記憶中心の授業、「円満な人格」をアピールするために参加しなければいけない適当な「課外活動」、チェスのように意図が明確で標準化されたテスト、どうやら何か非常に具体的な課題に答えることが求められているらしい「レポート」の執筆(しかしその課題が一体何なのかは知らされません)、などがそこに含まれます。

このようなテストは、子供にとって悪影響であるだけでなく、ハックが容易に可能であるという意味においても悪しきものだと言えます。テストをハックすることに特化した産業ができあがるほどです。予備校業界や受験カウンセラーはこうしたことを明示的に目的として掲げていますが、それは私立学校の役割の重要な部分でもあります。

なぜこの特定のテストは、これほどまでにハック可能 (hackable) なのでしょうか。それは、測定している内容が理由だと思います。よくある筋書きとしては、よい大学に入学する方法は、非常に賢くなることです。しかし、エリート大学のアドミッションオフィスは、非常に賢い人を探しているわけでもなく、そう主張することもありません。では、彼らは何を求めているのでしょうか。彼らが求めているのは、単に賢い人物ではなく、より一般的な意味において賞賛すべき人物です。では、この一般的な賞賛にふさわしい性質はどのようにして測定されるのでしょうか。アドミッションオフィスの勘です。言い換えれば、彼らは自分の好みで学生を受け入れます。

したがって、大学入試が行なっているテストの内容というのは、ある人たちの集団の趣味にあっているかどうかです。当然、そのようなテストはハック可能となります。そして大学入試は、ハックが非常に容易なだけでなく、人生にとってとても重要である(と思われている)ので、他の何物にも増して裏をかかれます。これが、入試がこれほどまでに長く、大きく、人の人生を歪めている理由です。

高校生が往々にして疎外感を感じるのは不思議ではありません。彼らの人生の様相は全く不自然です。

しかし、人生に影響を及ぼす教育制度の悪しき点は、時間の浪費だけではありません。最悪なのは、悪しきテストをうまく乗り切るためにハックする方法に慣らされてしまうことです。他の人々にこれが起きているのを目の当たりにするまでは、これは気づくことのない、とても些細な問題でした。

私は Y Combinator で、特に若いスタートアップの創業者に助言を始めた時、彼らが常に物事を難しくしているようみえることに戸惑いました。彼らは質問します。どのようにして資金を調達しますか?ベンチャー投資家に投資してもらう秘訣はどのようなものですか?私はこう説明します。ベンチャー投資家に投資してもらう最善の方法は、実際によい投資対象であることだ、と。もし、策略を巡らせて悪いスタートアップに投資してもらうことができたとしても、それは自分をも騙すことになります。皆さんが資金を投資してくれと頼んだ企業に、皆さんもまた時間を投資しています。もしそれがよい投資でないなら、なぜ皆さんはそうするのでしょうか。

おぉ、と彼らは言います。そして、一瞬間を空けて、この驚くべき真実を飲み込み、尋ねます。スタートアップがよい投資対象となる条件は何でしょうか。

こうして私は、単に投資家の目に魅力的に映るだけでなく、事実において見込みのあるスタートアップの条件は、成長であると説明します。理想的には収益ですが、それが無理なら製品を利用してもらうことです。必要なのは大勢のユーザーの獲得です。

どのようにして大勢のユーザーを獲得するのでしょうか。それについて、彼らにはあらゆる種類のアイデアがあります。それを「エクスポージャー」するには、大きなスタートを切る必要があること。影響力のある人々にその話をしてもらう必要があること。彼らは、スタートを火曜日にしなければいけないということさえ知っています。最も注目を集める曜日だからです。

いいえ、と私は説明します。ユーザーをたくさん獲得する方法はそういうものではない、と。多くのユーザーを獲得する方法は、真にすばらしい製品をつくることです。そうすれば、彼らはそれを使うだけでなく、友人に勧めてくれるでしょうから、皆さんの会社は、ひとたびスタートを切れば、加速するでしょう。

この時点までに、私は創業者に対して、まったく明らかだと思うようなことを教えました——つまり、優れた製品をつくることによって、優れた会社を作ることができる、ということをです。けれども彼らの反応は、物理学者が初めて相対性理論を耳にした時に示したに違いない反応と同じです。一見すると天才的な発想への驚きと、そんな奇妙な考えは正しいわけがないという疑念が混ざり合ったものです。彼らは律儀に、わかったといいます。そしてこう続けます。ところで、私たちを何それの影響力のある人物に紹介してくださいませんか?そして、覚えていてください。私たちは火曜日にビジネスをローンチしたいのです。

創業者がこのような単純な教訓を把握するまで、何年もかかることもあります。怠惰だったり、愚かだったりしたからではありません。目の前の正しいことが見えていないだけのように思われます。

私は自問します。物事をあんなに難しくしなければいいのに。そして、ある日、これが修辞的な疑問ではないことを悟ります。

創業者はなぜ、目の前に答えがあるのに、あれこれ難しく考えて当惑したのでしょうか。理由は、彼らはそうするように訓練されていたからです。彼らの受けた教育が彼らに、勝つ方法はハックすることだと教えました。そしてそれは、彼らがそのように訓練されていることを、彼らに知らせることなく行われてきています。若い人たち、最近の卒業生は、意図の明確なテストではないテストに直面したことがありません。彼らはこれが世間の仕組みだと思っていました。つまり、何らかの困難に直面した時に真っ先に行うべきなのは、テストをハックするには、どのような秘訣があるかを考えることだと思っていました。これが、会話の始まりが常に資金調達方法である理由です。それがテストのように解釈されるからです。それはYCの最後に登場します。そこには数値が伴い、数字が大きいほどよく見えました。テストにちがいありません。

確かに世界の大部分において、成功する方法は、テストのハックをすることです。この現象は学校に限ったことではありません。一部の人たちは、イデオロギーが原因であろうと無学が原因であろうと、これがスタートアップにも該当すると主張しています。けれどそうではありません。現に、スタートアップに関する最も衝撃的なことは、単によい仕事をすることによって勝利できることです。何事にもそうであるように、極端な事例があります。しかし、一般的に、ユーザーの獲得によって皆さんは成功します。そして、ユーザーが注目していることは、製品が自分たちの思ったように機能するかということです。

創業者がスタートアップを難しくしてしまう理由を把握するのに、どうしてそんなに時間がかかったのでしょうか。その理由は、学校が私たちを悪しきテストに妥協してうまくやるように訓練していることを、明確には認識していなかったからです。また彼らだけではなく、私もそのように訓練されていました。そして、何十年も経って初めて悟りました。

私はそれを認識していたかのように生きていましたが、その理由まで理解していませんでした。例えば、私は大企業では仕事をしないようにしていました。しかし、もしその理由を尋ねられたら、偽物だから、あるいは、官僚的だからだと言ったでしょう。あるいは単に嫌いだからです。私は、悪しきテストに妥協してうまくやるという事実がいかに私の大企業嫌いの原因になっているかを決して理解していませんでした。

同様に、テストに小細工が通用しないという事実は、私がスタートアップに惹かれる大きな理由です。けれども、これについても、私は明確に認識していませんでした。

私は、閉形式解を持つだろう問題を、いわば逐次近似的な方法で解決しました。私は自分でも知らないうちに、悪しきテストに妥協する訓練から、徐々に自らを解いていきました。では学校を出たばかりの人は、この悪魔の正体を知り、立ち去れと口にすることで、それを追い出すことができるでしょうか?試す価値はあるように思われます。

この現象について明確に話をするだけでも、物事をよくする可能性があります。その威力のほとんどは、私たちがそれを当然のこととして受け止めていることに起因しているからです。それに気づけば、それは部屋にいる象(誰もが気づいているのに誰も指摘しないもの)のようになります。ただし、とてもよく偽装された象です。この現象は非常に古くからあり、かなり普及しています。そしてそれは単なる放置の結果です。誰もこのようになるように意図したわけではありません。これはただ、学びと成績、競争、抜け穴が存在しないという無邪気な想定を組み合わせた時に起こります。

私が最も頭を悩ませたことのうちの二つ——高校教育の欺瞞、および創業者に明白なことを理解させることの難しさ——が同じ原因をもつのを悟ったことは衝撃的でした。まるで大きなブロックが所定の場所に滑り込んだようでした。こうしたことが起こるのに、ここまで時間がかかるのは珍しいことです。

そのようなことが起きる場合は、大抵は、多くの異なる領域に影響を及ぼします。この場合も例外ではないように思われます。例えばそれは、教育はもっとよくすることができるということと、どのようにして改善することができるかということの両方を示唆しています。 しかし、その他に、すべての大企業が持っていると思われる疑問—— 私たちはどのようにすれば、スタートアップのようになれるのだろうか—— に対する潜在的な答えも示唆しています。私はそうした潜在的な影響のすべてを今、突き止めることはしません。ここで注目したいのは、個人にとってどのような意味があるかということです。

まず、大学を卒業した最も野心的な若者には、アンラーンするべきものがあるようにみえます。しかし、それによって世界の見え方もまた変わるでしょう。人々がこなしているあらゆる種類の仕事に注目し、なんとなくこれは魅力的だとか魅力的でないとか思う代わりに、皆さんは今、それらを有意味な仕方で分類するための非常に具体的な質問をすることができます——つまり、悪しきテストをハックすることで、この種の仕事にどの程度の勝利を収めることができるのか、という質問です。

悪しきテストをすばやく認識する方法があるなら、役に立ちます。ここにパターンはあるのでしょうか。あることが判明しています。

テストは二種類に分けられます——権威によって課されているものと、そうでないものです。権威によって課されているものではないテストは、それらが実際にテストしている内容以上のものを問うテストだと誰も主張しないという意味において、本質的にハックできません。サッカーの試合は、例えば、単純に誰が勝つかのテストです。どちらがよいチームかというテストではありません。批評家が時として、よりよいチームが勝ったと述べるという事実から、そのように語ることはできます。一方、権威によって課されたテストは、通常、別のものの代理です。授業のテストは、その特定のテストでどのくらい点を取ることができるかを測定するだけでなく、その授業でどのくらい学んだかを測定するものだということになっています。権威によって課されたものではないテストは、本質的にハックできませんが、権威によって課されたテストは、意図的にハックできないものにする必要があります。大抵はそうではありません。このように、まず得られたおおよその結論として、悪しきテストは、大まかに言って、権威によって課されているテストに相当します。

皆さんは、実は、悪しきテストをハックして勝つことが好きかもしれません。おそらく、好きな人もいるでしょう。しかし、誓って言えるのは、この種の仕事をしていることに気づいているほとんどの人は、その仕事が好きではないということです。彼らは、脱落してヒッピーな職人か何かにでもならない限り、世界はそのように動いているのだとして、当然のものと受け止めているだけです。

私は、多くの人々が、悪しきテストが蔓延る分野で仕事をするということは多額の資金を作るための代償だと、それとなく想定しているのではないかと思っています。しかし宣言できますが、それは間違いです。かつてはそうでした。経済が売り手寡占だった20世紀半ばには、大手企業のゲームに乗じることだけが、一流になる方法でした。しかし、もうそうではなくなっています。現在では、よい仕事をして裕福になることができます。人々がかつてよりも裕福になることに胸を躍らせている理由はそこにあります。私が子供の頃、エンジニアになってすごいものを作るか、「執行役」になってたくさんの資金を手にするか、いずれかになることができました。今では、すごいものをつくることでたくさんの資金を手にすることができます。

悪しきテストに妥協することは、仕事と権威の間のつながりが弱まるに連れ、重要ではなくなってきています。そのつながりの脆弱化は最も重要な現在の動きであり、私たちはほぼすべての職種にその影響を見ています。最も分かりやすい例の一つがスタートアップですが、私たちは著述業でも同様のことが起こっているのを目にします。執筆家は読者に読んでもらうために、もう出版社や編集者に提出する必要はありません。今では直接できるのです。

この疑問について考えれば考えるほど、私はより楽観的になっています。これは、なくなってしまうまで、それがいかに自分たちを支えているかに気づかないような状況の類にみえます。さらに、私は、この欺瞞に満ちた体系が丸ごと崩壊すると予知しています。悪しきテストをハックすることでうまくやりたいかと自問を始め、そんなことはしたくないと決断する人が増えていくと、何が起こるかを想像してください。悪しきテストをハックしてうまくやるような種類の仕事では、才能ある人材が枯渇するようになるでしょう。そして、よい仕事をして成功するという種類の仕事では、最も熱意のある人々が殺到するのを目の当たりにするでしょう。さらに、悪しきテストをハックすることの重要性がなくなっていくと、教育は私たちにその訓練をしない方向で進化するでしょう。それが起きた時に世界がどのような様相を呈する可能性があるかを想像してください。

これは、単なる個人向けのアンラーンのレッスンではありません。社会がアンラーンするためのレッスンです。そして、私たちがそれを実行した時に自由になるエネルギーに私たちはきっと驚くでしょう。

 

注釈

[1] 学びを測定するだけにテストを用いるというのは、あり得ない理想郷のようにみえます。しかし、それは既にLambda Schoolで機能している方法です。Lambda Schoolには成績がありません。卒業してもしなくても大丈夫です。テストの唯一の目的は、カリキュラムのそれぞれの段階で、次に継続できるかどうかを決めることです。ですから結果的に、学校全体が、合格/不合格でしか学生を評価をしないことになります。

[2] 学期末テストが、教授との会話で構成されているなら、中世の歴史に関する良書を読んで準備することができます。学校のテストが裏をかきやすいのは、大勢の学生に対して同一のテストを受けさせなければいけない事実によるところが大きいです。

[3] 学びとはよい成績をとるための単純なアルゴリズムです。

[4] hackingには複数の意味があります。狭義には何かに妥協するというものがあります。悪しきテストに妥協するという時の意味です。しかし、もう一つの意味で、より一般的なものとして、問題に対する驚くべき解決策というものがあります。よくあるのは、異なる考え方による解決策です。この意味でのhackingはすばらしいことです。確かに、悪しきテストに人が用いる一部の解決策は感動的なまでに見事です。問題は、hackingそのものというよりも、ハックが可能であり、意図したものを測定できないということです。

[5] Y Combinatorでスタートアップを選ぶ人々は、入試担当官に似ています。ただし、彼らの受け入れ基準は、恣意的ではなく、非常にきちんとしたフィードバックのループによって訓練されています。仮によくないスタートアップを選んだり、優れたスタートアップを拒否したりすれば、大抵は1年後、遅くとも2年後、あるいは1ヶ月以内というのもよくあることですが、いずれにしても事実を知ることになるでしょう。

[6] 私は、入試担当官が学生たちの応募書類を読むことに飽き飽きしていると確信しています。受け入れてもらうためにはどんな人格でも演じる用意があるという以外に、全く人格がないような学生たちです。担当官が気づいていないことは、彼らはある意味、自分の鏡を覗き込んでいるということです。応募者の本物らしさの欠如は、審査過程の恣意性の反映です。まるで自分の周囲の人たちが本音を言わないことに不平を言っている独裁者となんら変わりません。

[7] よい仕事という言葉で私が意味しているのは、道徳的に善良であることではなく、優れた職人がよい仕事をするという意味での「よい」です。

[8] テストがどちらの範疇に入るのかを判断するのが困難な場合、境界線の事例があります。例えば、ベンチャー資本の調達は、大学入試と似ていますか?それとも顧客に対する営業に似ていますか?

[9] よいテストとは、単にハックが不可能なものであるという点を念頭に置いてください。ここでの「よい」は道徳的に善良であることではなく、よく機能するという意味です。悪しきテストのある分野とよいテストのある分野の間の相違は、前者がよくて、後者が悪いということではなく、前者は欺瞞的で、後者はそうでないということです。しかし、それらの尺度は無関係ではありません。Tara Ploughmanが言ったように、善から悪への道は欺瞞を通っています。

[10] 昨今の経済的な不平等の拡大の原因を税制の変更だと考える人たちは、スタートアップで経験のある人の誰の目にも、とても世間知らずのように映っています。現在では、かつてよりも多様な人々が裕福になっており、彼らは単なる税制の優遇で裕福になるよりもはるかに裕福になっています。

[11] 教育熱心なご両親への注釈——皆さんはご自分のお子さんを勝つように訓練していると思っているかもしれません。しかし、悪しき基準に妥協することを訓練しているのなら、親が往々にしてそうするように、時代遅れの戦法で戦うことを訓練しているのです。

 

ドラフトを読んでいただいた次の方々に感謝します。Austen Allred、Trevor Blackwell、Patrick Collison、Jessica Livingston、Robert Morris、Harj Taggar。

 

著者紹介

Paul Graham

Paul は Y Combinator の共同創業者です。彼は On Lisp (1993)、ANSI Common Lisp (1995)、ハッカーと画家 (2004) の著者でもあります。1995 年に彼は Robert Morris と最初の SaaS 企業である Viaweb を始め、1998 年に Yahoo Store になりました。2002 年に彼はシンプルなスパムフィルタのアルゴリズムを見つけ、現在の世代のフィルタに影響を与えました。彼は Cornell から AB を、Harvard からコンピュータサイエンスの PhD を授けられています。

 

記事情報

この記事は原著者の翻訳に関する指示に従い翻訳したものです。
原文: The Lesson to Unlearn (2019)

Copyright 2019 by Paul Graham.

FoundX Review はスタートアップに関する情報やノウハウを届けるメディアです

運営元