子どもを持つことについて (Paul Graham)

私は子どもを持つ以前は、子どもを持つことを恐れていました。その時点まで、私は子どもに関して、若かりしアウグスティヌスが「高潔に生きること」について抱いていたものと同じような気持ちを持っていました。一生子どもを持たないことを考えたら悲しくはなっていたでしょう。しかし今子どもが欲しいか?と言われれば、答えはノーでした。

子どもを持ったら私は親になるわけで、そして親というものは、私が子どもだった頃から知る限り、イケてない存在でした。つまらなくて、責任感があり、楽しいことなどしない人たちでした。子どもがこのようなことを信じていても驚きはないでしょうが、正直に言えば私は大人になってからもその考えが変わることはありませんでした。子どもを連れた親を見るたび、私には子どもは手に負えない脅威に、そして親は哀れなやかましい生き物に見えました。親が威厳を見せていたときですらも、です。

誰かに赤ちゃんが生まれると、私は熱烈に祝福しました。人はそうするものであるように見えたからです。しかし心からそう思ってはいませんでした。「私じゃなくてよかった」などと思っていました。

今では、誰かに赤ちゃんが生まれると、私は心から、熱烈に祝福します。特にそれが1人目の子どものときには。相手が世界中で最高の贈り物を受け取ったような気持ちになります。

何が変わったのかといえば、もちろん、私自身が子どもを持ったことです。恐れていたことが、ふたを開けてみれば、すばらしいことでした。

否定もしませんが、この一部は、うちの1人目の子どもが生まれたときにほぼ一瞬で起こった、強烈な化学的変化によるものでしょう。まるで誰かがスイッチを入れたかのようでした。私は突然、自分の子に対してだけでなく、すべての子どもに対して守ってあげたいような気持ちになりました。退院した妻と新生児の息子を乗せて車を運転していて、歩行者がいっぱいの横断歩道に近づいたとき、こんなことを思う自分に気づきました。「この人たち全員に、本当に注意を払わなくては。一人一人、みんな誰かの子どもなんだ!」と。

子どもを持つのはすばらしいことだ、と私が言っても、ある意味信じられないでしょう。ある意味私は、あなたもカルトに加われば幸せになれますよ、と言うカルト信者のようなものです。カルトに加われば幸せになれるというその理由は、カルトに加われば、カルト信者でいることが幸せと思えるようあなたの考えが変わるから、というだけのことです。でも完全には変わらないでしょう。私には子どもを持つ以前には明らかに誤解していたことがいくつかあります。

例えば、私が親と子どもを観察する中で、多大な選択バイアスがありました。私が「子どもを連れた親に気づいたとき」と書いたことに気づいた親御さんがいるかもしれません。私が子どもに気づいたときというのはもちろん、何かよくないことが起きていたときなわけです。私が子どもに気づいたのは、子どもがうるさくしているときだけでした。そして子どもに気づいたとき私はどこにいたか? 私は普段子どものいる場所には行かなかったので、子どもに出くわすのは、飛行機の中のような逃げ場のない状況に限られました。このような状況は代表的なサンプルとは言えません。赤ちゃんを連れた飛行機移動を楽しむ親はあまりいないでしょう。

私が気づかずに見過ごしていたのは、親が子どもと一緒にすばらしい時間を過ごしていた姿です。なぜなら、そういうときの方がずっと静かだからです。親はこういうときのことをあまり話題にしません—―こういう魔法のような時間は言葉で説明しづらいものですし、親ならどのみちみんな知っているものだからです。しかし、子どもを持つことのすばらしさの一つは、他のどこに行くよりも他の何をするよりも、一緒にいるこの時間が最高だと思えるときがたくさんあるからです。別に特別なことをしなくてもよいのです。一緒にどこかに行くだけ、あるいは寝かしつけるだけ、あるいは公園でブランコに乗せて押すだけのことかもしれません。でもこれらの瞬間は何にも代えがたいものです。一般的に子どもを心の平安と関連付けることはあまりないかもしれませんが、心で感じることはそういうことです。今いる場所以外のところに目を向ける必要はありません。

私は子どもを持つ以前、このような心の平安を感じること自体はありましたが、その回数はずっと少ないものでした。子どもがいると、一日に数回感じることができます。

子どもに関する私のこれ以外のデータは自分自身の子ども時代であり、こちらも同様に誤解につながるものでした。私はなかなかの悪ガキで、いつも何がしかをしでかして問題を起こしていました。ですから私にとって、親であることとは概ね警察のようなものに見えました。よいときもあることに気づきませんでした。

私が30歳くらいの頃、母が私と妹を育てるのは本当に楽しかったと話してくれたことを覚えています。何てこった、この女性は聖人か、と私は思いました。母は私たちがやらかしたことによるあらゆる苦痛に耐え抜いただけでなく、実際楽しかった、と? 今なら、母はただ真実を語っただけだとわかります。

母は、私たちを育てて楽しかったことの理由の一つに、私たちと話すのが面白かったということを挙げました。これは私が子どもを持ったときに驚かされたことでした。子どもは愛する対象なだけでなく、友達にもなるのです。子どもはとても興味深いものです。小さな子どもは破滅的なほどに同じことを繰り返すのが大好きなことも認めますが(一度やる価値のあることは50回やる価値がある)、子どもと遊ぶのは純粋に楽しいものです。これも私にとっては驚きでした。2歳児と一緒に遊ぶのは、自分が2歳だった頃には楽しかったですが、6歳の頃には絶対楽しくなかったはずです。なのに、しばらく経ってから再び楽しくなるとはどういうことでしょう? でも、そうなるのです。

もちろん、ただただ骨が折れるだけの時もあります。あるいはさらにひどいことに、手に負えない時も。子どもを持つことは、子どもを持たない限り想像することが難しいような、強烈な経験のひとつです。でもそれは、私が子どもを持つ前になんとなく信じていたような、単に自分のDNAを残すというだけのことではありません。

ただし、私が子どもを持つことに対して抱いていた心配事のいくつかは正しいものでした。子どもは、あなたの生産性を下げます。子どもがいることでより仕事に身が入る人がいることも知っていますが、すでにしっかり仕事をしてきた人は、より少ない時間で仕事をしなければならなくなります。具体的に言えば、スケジュールに合わせて仕事をする必要が出てきます。これは子どもというものの性質なのか、こうするしか大人の生活に合わせることができないからなのかわかりませんが、子どもを持つと子どものスケジュールに合わせて働くことになるようです。

仕事をするための時間のかたまりはいくつか出てきます。しかし、子どもを持つ以前のように、仕事を生活の中に見境なく入り込ませることはできなくなります。インスピレーションが湧こうと湧くまいと、毎日同じ時間に仕事をしなければならなくなります。そして、インスピレーションが湧いているときであっても、仕事を止めなければならないときも出てきます。

私は今のところ、このような働き方に適応することができています。恋愛と同様、仕事においても自ずとその手段が現れます。ある特定の時間にしか起こりえないことは、その時間に起こります。そんなわけで、子どもを持つ以前ほど多くのことは成し遂げられませんが、それでも十分できています。

野心的であることはこれまで常に私のアイデンティティの一部であったため、これはあまり言いたくないのですが、子どもを持つと野心は減るかもしれません。文字面になったこの文章を見ると心が痛みます。身もだえしてしまいます。しかしそこに真実の一片がなければ、なぜ身もだえするでしょうか? 実際、子どもを持つと、おそらく自分自身のことよりも子どものことを気にするようになります。そして注意・関心というのはゼロサムゲームです。いちどきに念頭に置ける最重要な考え日本語訳)はひとつだけです。子どもを持てば、その最重要な考えは多くの場合子どものことになり、つまりあなたが取り組んでいるプロジェクトのことではなくなります。

私はこのリスクに対処するための小技をいくつか持っています。例えば私はエッセイを書くとき、私の子どもたちに知ってほしいことは何かと考えます。これは、私がよい仕事をするためのモチベーションになります。そして私がBelを書いていたとき、これが終わったらアフリカに連れて行ってあげると子どもたちに伝えました。小さな子どもにそういうことを言うと、子どもはそれを約束事として扱います。これはつまり、私はその仕事を終わらせなければ、子どもたちからアフリカ旅行を取り上げてしまうことになることを意味しました。もし私が非常にラッキーなら、このような小技で先に進めるかもしれません。しかしリスクは間違いなくあります。

一方で、子どもがいるくらいで持ちこたえられなくなるような野心など、どれだけひ弱なものでしょうか? そんなに余裕がないのでしょうか?

そして、子どもがいることで私の現在の判断はゆがんでいるかもしれませんが、私の記憶は上書きされてはいません。以前の生活がどんなふうだったか、私は完璧に覚えています。とてもよく覚えています。いくつかのことができなくなってとても残念に思うほどに。例えば、突然どこかの国に飛んだりすることはできなくなりました。もしそうしていたら最高だっただろうに。なぜ私は一度もやらなかったのでしょう?

さて、私が実際にやっていたことを理解してもらえるでしょうか? つまり、子どもを持つ以前に持っていた自由のほとんどを、私は実際に活用することはなかったのです。私は寂しさを紛らわせるためにお金を使いましたが、その自由を行使することはありませんでした。

子どもを持つ以前も、幸せな時間は十分すぎるほどありました。しかし幸せな瞬間を数えれば、そして幸せになったかもしれない瞬間ではなく実際に幸せだった瞬間を数えれば、子どもを持つ前よりも持った後の方が多いです。今ではほとんどいつでも幸せな瞬間を味わえます。寝かしつけの時間はほぼいつもそうです。

親としての経験は人により大きく異なりますし、私は自分が幸運だったこともわかっています。でも子どもを持つ前に私が抱いていた心配事はおそらくかなり一般的なものだろうと思いますし、他の親御さんが子どもを見るときの顔を見るに、子どもがもたらす幸せもまた然りなのだろうと思います。

 


[1] 大人は洗練されているため2歳児の驚くほど複雑な性格を捉えることができますが、一方ほとんどの6歳児にとって、2歳児とは欠陥のある6歳児に過ぎません。



本稿の下書きを読んでくれたTrevor Blackwell、Jessica Livingston、Robert Morrisに謝意を表します。

 

著者紹介

Paul Graham

Paul は Y Combinator の共同創業者です。彼は On Lisp (1993)、ANSI Common Lisp (1995)、ハッカーと画家 (2004) の著者でもあります。1995 年に彼は Robert Morris と最初の SaaS 企業である Viaweb を始め、1998 年に Yahoo Store になりました。2002 年に彼はシンプルなスパムフィルタのアルゴリズムを見つけ、現在の世代のフィルタに影響を与えました。彼は Cornell から AB を、Harvard からコンピュータサイエンスの PhD を授けられています。

 

記事情報

この記事は原著者の翻訳に関する指示に従い翻訳したものです。
原文: Having Kids (2019)

Copyright 2019 by Paul Graham.

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